2007年1月24日水曜日

コラム;文法学習の落とし穴

「今週中と今週中の違い」


コラムは久しぶりとなったが、最近気づいたことがある。それは、文法についてである。

ふと、NHKの昼の番組を見ていたら、日本語のコーナーというものがあった。内容は「“ちゅう”と“じゅう”の違い」である。例文にこんなものがあった。

「市内の学校中、生徒数が一番だ」と「市内の学校中、全て生徒が多い」

この二つはどちらも中という漢字が用いられているが、ちゅうと発音するものとじゅうと発音するものに分かれる。もちろん、後者をじゅうと発音する。


日本語解説者はここで、前者の“---○--”のように全体における、で表せるものと、後者の“○○○○○”のように、全体を表すものとに分けられるかもしれない、とのべた。


確かに言われてみれば、そうかもしれない。いつもは無意識のうちに選び読んでいる漢字も、そんな風に説明されれば、あぁと納得させられたし、むしろ結構楽しかった。

最後に解説者は、これは例であって、全てがこれに当てはまるわけではないと付け加えた。

日本語の文法

さて、いつも私たちが無意識に使っている日本語にも文法がある。
でも考えていただきたい。そんな文法を知らなくても、読めるし使えるじゃないか

むしろ、「これは全体の“点”だから、ちゅうで、これは“全体”だから、じゅうだ」なんて、そんなことをいちいち考えていたら日が暮れる。

英語も日本語と同じで“言語”というカテゴリであることに疑問をもつ人はいない。

日本人が日本語を学ぶのに“経験や感覚で身に付けたもの”を使っているのに、英語となったとたんに、やれ文法だとか、やれ意味だと走ってしまうのはなぜか?

それは、経験や感覚を学ぶだけの時間を取れないと感じるからである。手っ取り早い方法として文法に走ってしまう。


文法学習にたよる英語=数学

ところで、文法を使って学習することはどこか数学に似ていると私は思う。数学は、1+1=2が常に成り立つ。これはいい、公式さえ知っていれば、難題も解ける。

しかし、もし1+1=0だとしたらどうなるか?誰も問題が解けない。

語学(英語)は決して数学的ではない。1+1=0が成り立つこともあるものだ。現に、小一でも知っている“中”という漢字だって公式では片付かない、例外だらけなのだ。

日本人が文法に頼った理由

さて、日本人は想像力が弱いと思う。もとより、多くが理数系なのかもしれない。

確かにすばらしい技術を持っている。しかし、この国の技術歴史を振り返ると、意外と独創性は薄い。

例をあげると、日本の中心産業といえるだろうか、自動車産業がある。しかしこれは、元々、外国が先に発案し、それが日本に入ってきた物を、日本人向け、または、もっと乗り心地のいいもの、質のいい物を作ろうとした結果、現在に至っているのだ。

そのような「輸入技術+日本人の技術=優れた技術」といったものは数知れない。私は、別に「輸入技術+日本人の技術=優れた技術」を馬鹿にしているのでも、卑下しているわけではない。

さて、これと英語とどう関係するのか?

実は大いに関係するのである。つまり、問題解決には公式ありき。これがもっとうである日本人的感覚が文法という考えにたどり着いてしまったのではないだろうか。

つまり、英語も数学と同じように捉えてしまったのではないか?私には、文法という言葉自体、どこか“公式”という言葉に共通する意味を感じてしまう。(文法=公式)
しかし、先に書いたように、語学は、1+1=0が平気で通る世界なのだ。決して公式では解決できない。



文法を回避する方法

それでも、人間というのはすばらしい。経験や感覚でなんとなく正解にたどり着けるのである。こんなすごい能力を私たちは実際に用いている。もちろん日本語でであるが。

“英語は絶対勉強するな!2”の中には、著者がドイツに留学したときのエピソードが載せられている。当時の著者は文法中心の勉強に明け暮れていたそうだ。学校でのディスカッションでは全く話せなかったが、文法の授業では張り切って取り組んでいた。

さてそこに、興味深い文章があった。


「文法の問題を、みんな(日本や韓国以外の国から来た留学生)は、感覚ですらすらと解いてしまったが、それでもかなりの確率で正解だった

また正解を選んだ理由について聞いてみると、「なんとなく、それが正解のような気がした


かなりの正答率で、しかもすらすらと解いた方法は、経験や感覚で養われた英語だったのである。


文法は足がかりとなるかもしれない?

結論として、文法は、ある程度の知識になり、その後で、経験や感覚を身につけられるような訓練をすることが効果的だということだ。


ここで、文法が、ある程度の知識になるといったが、逆説のように思われただろうか?
実は最近、よく考えてみた。

K嬢(英絶の第一達成者)、著者は共に、最初は文法や単語などを勉強した。が、うまく成長できなかった。それから、次に英絶方法を実践したところ成功できた。

つまり、赤ちゃんの状態から英絶をしたわけではない。むしろ足がかりを作った上で英絶を実行し成功しているのである。

最近、赤ちゃんのように学ぶ方法は一定の年齢を過ぎたらできない、とされ、英語は絶対勉強するな!は相当叩かれている。

しかし、足がかりを作った上で英絶をすることは、むしろ赤ちゃんのように学ぶことを超越しているとは思えないだろうか?それはすなわち、経験や感覚を培う訓練と呼べないだろうか?

そう考えるとこの英絶法も決して捨てたものではない。

私は最近、英絶は、経験や感覚を学ぶ訓練だと感じている。公式ではない感覚がそこにはある。


Eize's Right 2007/01/24

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