英絶(えいぜつ)という英語習得法は、よく“幹のようなもの”と表現される。ようはボクら学習側が枝を考え、アレンジすることが必要だといったものだ。
それはそれでどこか正当な理屈に感じる。
というのも、簡単に書いてあるのに、実際にやる方は一苦労もふた苦労もするものだ。
どこかで、枝を考え、こちら側のアレンジで対処する、楽しくやる方法はないのか・・・と考えたとしてもなんら不思議ではない。英絶を実践した人でアレンジをしなかった人がどれほどいるのだろう。
さて、著者はこちら側がアレンジすることを察していなかったわけではない。いやむしろアレンジする日が来るだろうといったコメントを残している。
アレンジするのが、英絶の範囲内であればよし、それを超えたら必ず挫折する…言いたいのは、そんなところだろうか。
実際ボク自身、過去にあれこれアレンジをしてきた。
もちろん、英絶の範囲内でアレンジしたと考えてきたし、むしろもっと画期的なもんを作ってやろうぐらいの気持ちで取り組んできた。
しかし、よくよく考えるとアレンジがどれほど効果があったのか分からない。
一生懸命ただひたすら…(高専時代の名物先生がよくいってたなぁ)一生懸命ただひたすら読んでいたときの方がむしろ確実にレベルアップしていた気さえする。
英絶の本でも、結局行き着くところは、英絶のやり方なんだよとしているが、本当にそうだったのかもしれない。我流はときとして無常にも打ち砕かれるものである。
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